その日、俺は重要なプレゼンを控えていた。
緊張のせいか、駅に到着した途端に猛烈な腹痛が襲ってきた。冷や汗をかきながら駆け込んだのは、最近リニューアルされたばかりの駅ビル。トイレのエリアに足を踏み入れると、そこはまるで近未来の空間だった。
すべての個室が、ピカピカの「自動ドア」になっている。
壁に配置された大きな非接触センサーに手をかざすと、「ウィーン」という静かな音を立てて厚みのある扉が横にスライドした。
「すごいな、最近のトイレは……」
感心している余裕はなかった。俺は滑り込むように個室に入り、すぐさま振り返って「閉」のセンサーに手をかざす。扉がスムーズに閉まり、カチリと電子ロックが締まる音が響いた。同時に、センサーのLEDランプが赤く点灯し、「しめきり(施錠中)」の文字が浮かび上がる。
よし、これで俺のプライベート空間は完全に確保された。
一安心した俺は、ベルトを外し、スラックスと下着を一気に膝元まで引き下げて便座に腰掛けた。まさに間一髪。押し寄せる波を処理しながら、ふう、と深い溜息をつく。スマホを取り出し、プレゼンの資料を最終チェックする心の余裕すら生まれ始めていた。
だが、この時、俺は気づいていなかった。
この最新鋭の個室に潜む、致命的な「バグ」の存在に。
異変が起きたのは、用を足し終え、トイレットペーパーに手を伸ばした瞬間だった。
特にどこかのボタンに触れたわけでも、立ち上がったわけでもない。
それなのに、背後の壁から「ピッ……」という、電子的な警告音が小さく響いたのだ。
え? と思った瞬間には、すべてが遅かった。
「ウィーン……」
無慈悲なモーターの駆動音とともに、俺の目の前にある壁――いや、頑丈な自動ドアが、ゆっくりと、しかし確実に右側へとスライドしていく。
「は? おい、ちょっと待て!」
パニックになり、俺はトイレットペーパーを握りしめたままフリーズした。
目の前がどんどん開けていく。駅ビルの明るい照明が、容赦なく個室の中に降り注ぐ。
自動ドアのセンサーが何らかの誤作動を起こし、勝手に「開錠」および「開放」のプロセスを実行したらしかった。いや、もしかしたら、俺が個室に入った時点で、システム側は「誰もいない」と誤認していたのかもしれない。
何にせよ、現在の俺のステータスは最悪だった。
便座にどっしりと腰掛け、下半身は身にまとっているものが何一つない、完全なる「丸出し」状態。
閉じるセンサーに手を伸ばそうにも、センサーはドアのすぐ横の壁にある。便座から思い切り身を乗り出さなければ届かない位置だ。しかし、スラックスが足首に引っかかっているため、立ち上がることも、素早く動くこともできない。
「閉まれ! 閉まってくれ!」
声にならない叫びを心の中で上げながら、俺は必死に手を伸ばした。
だが、非情にも自動ドアは全開になり、通路が完全に目の前に広がった。
そして、運命の神様はどこまでも意地悪だった。
ドアが開ききったまさにその瞬間、個室の前を横切ろうとした人物がいた。
買い物の紙袋をいくつも抱えた、20代後半とおぼしき綺麗なオフィスレディ風の女性だった。
彼女は、不意に横で「ウィーン」とドアが開いたため、何気なくそちらに視線を向けた。
そして、視線の先にいた俺と、完全に目が合った。
正確に言えば、彼女の視線は、俺の顔から、一瞬でその下にスライドした。
遮るものの何もない、白日の下に晒された俺の下半身へと。
「……あ」
彼女の口から、小さな、乾いた声が漏れた。
時が止まった。
静寂に包まれた空間の中で、俺と彼女の視線が交錯する。
- 俺:便座に座り、下半身丸出し、右手にトイレットペーパー。
- 彼女:紙袋を抱え、目を見開き、驚愕の表情。
彼女の瞳が、恐怖と、困惑と、見てはいけないものを見てしまったという拒絶感で激しく揺れ動いているのが手に取るように分かった。俺の顔は、おそらく一瞬で血の気が引き、そのあと一気に沸騰したように真っ赤になっていたと思う。
叫びたかった。弁解したかった。
「違うんです! 変質者じゃないんです! 機械の誤作動なんです!」と。
しかし、あまりの精神的ショックに、喉が完全に張り付いて声が出ない。
彼女は数秒間、彫刻のように凝固していたが、やがて顔を急激に真っ赤に染めると、
「……っ!」
と短い悲鳴のような息を漏らし、脱兎のごとくその場から走り去っていった。
バタバタと響くヒールの音が遠ざかっていく。
残されたのは、全開になった個室で、下半身を晒したまま呆然と立ち尽くす(実際には座っている)俺だけだった。
誰もいなくなった通路を見つめながら、俺は魂が口から抜け出ていくような感覚を味わっていた。
数秒後、ようやく我に返った俺は、必死に足首のスラックスを蹴り上げ、半狂乱で壁のセンサーを叩くようにタッチした。
「ウィーン……カチリ」
再び閉ざされる扉。
個室の中に、ようやく静寂が戻ってきた。
しかし、俺の心は完全に崩壊していた。
「終わった……」
何が、とは言えないが、俺の社会的な何かが確実に終わった気がした。
急いで用を足し終え、身なりを整える。スラックスのジッパーを上げる手が、情けないほどに震えていた。個室を出るのが恐ろしい。もしさっきの女性が警備員を連れて待ち構えていたら? 「盗撮魔です!」とか「露出狂です!」と叫ばれたら、俺の人生は一発アウトだ。
深呼吸を何度も繰り返し、意を決してセンサーに手をかざす。
ドアが開き、恐る恐る外を覗き込む。幸いにも、通路には誰もいなかった。
俺は下を向いたまま、競歩のようなスピードでトイレを脱出し、駅ビルを後にした。
その後のプレゼンがどうなったか、正直あまり記憶にない。
辛うじて喋りきったものの、頭の片隅には常に「あの瞬間」の映像がリフレープしていた。
あれ以来、俺は外出先で自動ドアのトイレを見かけると、激しい動悸がするようになった。どうしても使わなければならない時は、ドアが閉まった後、本当に鍵がかかっているかを何度も手で引っ張って確認し、さらに用を足している間も、いつでもドアを足で押さえられるように身構えるという、奇妙な習性がついてしまった。
便利すぎる世の中というのも、時として牙をむく。
あの近未来的な駆動音は、今でも俺のトラウマである。

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