「あ、明日の手術なんですけどね。朝一番に看護師が剃毛(ていもう)に伺いますから。準備しておいてくださいね」
主治医が回診の終わりにさらりと言い放ったその言葉に、僕——32歳の会社員、佐藤拓也——は心臓が跳ね上がるのを感じた。
病名は下腹部のヘルニア(脱腸)。命に関わる大病ではないものの、放置するわけにもいかず、2泊3日の予定で手術を受けることになった。手術自体への恐怖はもちろんあったが、まさかその前段階に、これほど高い精神的ハードルが待ち受けているとは夢にも思わなかった。
「ていもう、ですか……? 自分でやっておくわけには……」
「あはは、無理に自分でやって傷でもつけたら、そこから感染症を起こして手術が延期になっちゃいますからね。プロに任せるのが一番安全ですよ」
主治医は爽やかな笑顔でそう言うと、足早に病室を出て行った。
プロに任せる。言葉の響きは頼もしいが、要するに「明日、見ず知らずの女性(おそらく)に、自分の最も神聖でプライベートな領域の毛を剃られる」ということだ。
その夜、消灯時間を過ぎても全く眠れなかった。天井を見つめながら、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。
(頼むから、ベテランの、できればお母さん世代の看護師さんであってくれ……。いや、いっそ男性の看護師さんなら……)
そんな淡い期待と、言葉にできない猛烈な羞恥心が、波のように交互に押し寄せていた。
翌朝、午前7時30分。
非情にも、その時間はやってきた。
トントン、と軽やかなノックの音が病室に響く。
「失礼します。本日、手術を担当する看護師の小林です。佐藤さん、剃毛のお時間ですので準備をはじめますね」
カーテンを開けて入ってきたのは、僕の淡い期待を無残に打ち砕く、20代半ばほどの若く、清潔感のある女性看護師だった。目が大きく、いかにも「仕事ができます」といった風のハキハキとした口調。それが逆に、僕の絶望感を深めた。
「は、はい……よろしくお願いします」
僕の声は、自分でも驚くほど小さく裏返っていた。
「じゃあ、ズボンと下着を膝のあたりまで下げて、ベッドに仰向けになってくださいね。バスタオルをかけますから」
小林看護師は、まるで「今からバイタル(血圧)測りますね」とでも言うかのような、完全にフラットなトーンで指示を出してくる。
彼女にとって、これは1日に何度も行うルーティンワークの一つに過ぎないのだろう。それは頭では分かっている。分かっているが、こちらにとっては32年の人生における最大の有事なのだ。
僕は意を決し、震える手でパジャマのズボンとトランクスをまとめて引き下げた。
パサリ、と緑色の乾いたバスタオルが下半身にかけられる。その瞬間、僕はまな板の上の鯉になった。
「じゃあ、少しタオルをめくりますね。寒かったり、痛かったりしたらすぐに言ってください」
カサカサと、使い捨てのカミソリやジェルを用意する音が聞こえる。
そして、ついにその時が来た。
小林看護師の、医療用ゴム手袋に包まれた冷たい手が、僕の太ももの付け根に触れた。
「ひゃい」
変な声が出た。
「あ、冷たかったですか? すみません、今からジェル塗りますね」
彼女は僕の奇声を気にする風でもなく、温めたジェルを患部……いや、僕の「そこ」の周辺に手際よく広げていく。
ここからが、僕にとっての本当の戦いだった。
人間の身体というものは、極限の緊張状態に置かれると、防衛本能として逆に感覚が敏感になるらしい。しかも、相手は若い女性だ。理性では「これは医療行為だ。彼女は僕の身体を『物体』として見ている。邪念を捨てろ」と100万回唱えていても、生物としての本能が、その微細な刺激に反応しようとする。
(ダメだ。絶対に、反応してはならない。ここで男としての機能が目覚めてしまったら、僕は今日この病院の屋上から飛び降りるしかなくなる)
僕は両手をグッと握り締め、天井の一点を見つめた。
目を閉じると、かえって触覚が研ぎ澄まされてしまう。だから、天井の蛍光灯の隅にある、小さな虫の死骸のような汚れに全神経を集中させることにした。
「じゃあ、剃っていきますね。少し引っ張ります」
シャリ、シャリ、と小気味よい音が静かな病室に響く。
小林看護師の手つきは、恐ろしいほどプロフェッショナルだった。躊躇なく、しかし極めて愛護的に、僕のデリケートな皮膚を指でピンと張りながら、的確にカミソリを滑らせていく。
その指先が、僕の「本体」にわずかに触れるたび、全身に電撃が走るような緊張感が走った。
(うおおおおお! 鎮まれ! 鎮まるんだ僕の細胞たちよ! 今考えているのは、明日の株価! いや、昨日のプロ野球のスコア! 違う、世界の飢餓問題だ! 地球温暖化だ!!)
脳内で大音量の雑音を流し、必死に性的・肉体的な興奮をシャットアウトする。
心拍数は確実に120を超えていたと思う。背中にはびっしょりと冷や汗が流れていた。
小林看護師は、僕のそんな内面の狂気じみた葛藤など知る由もない。
「佐藤さん、体硬くなってますよ? 息止まってます。深呼吸してくださいねー、すってー、はいてー」
「ふー、はー、ふー、はー」
言われるがままに深呼吸をするが、声が震える。
「……す、すみません、緊張してしまって」
「皆さんそうですよ。痛くないですか? 大丈夫ですからね」
彼女の優しい言葉が、逆に僕の理性の堤防を脅かす。
触れられる位置が変わるたびに、筋肉がビクッと収縮するのを、僕は必死に抑え込んだ。全神経を腹筋に集中させ、下半身への血流を物理的に阻止するようなイメージで、ただひたすらに耐え続けた。
「はい、前側は綺麗になりました。次は少し横を向いていただけますか? お尻の近くも少し剃りますね」
(まだあるのか……!)
しかし、前半戦の最大の危機を「無反応」で乗り切ったことで、僕の中に妙な自信が芽生えていた。
指示通りに身体を横に向け、丸くなる。ここまで来ると、羞恥心の限界を超えて、一種のトランス状態に近かった。
シャリ、シャリ。
最後の仕上げが行われ、温かい清拭タオルで綺麗にジェルと毛が拭き取られていく。
「はい、お疲れ様でした。とっても綺麗に剃れましたよ。これで手術の準備はバッチリです!」
小林看護師は、パッとバスタオルを整え、僕のズボンを手際よく引き上げてくれた。
その一連の動作の鮮やかさに、僕はただただ圧倒されるばかりだった。
「ありがとうございました……」
僕はベッドに横たわったまま、燃え尽きたボクサーのように、弱々しくお礼を言った。
「はーい。じゃあ9時にまた迎えに来ますから、それまでリラックスしていてくださいね」
彼女はワゴンを押して、嵐のように去っていった。
病室に静寂が戻る。
僕はそっと自分の下半身に手を当てた。
ツルツルだった。そして何より、僕の尊厳は守られた。一瞬の「反応」の兆候すら見せることなく、完全なる鉄の意志で己を制御しきったのだ。
窓から差し込む朝日が、妙に神々しく見えた。
「僕は、勝ったんだ……」
これから始まる手術への恐怖は、不思議と綺麗に消え去っていた。あの極限の精神試練を乗り越えた今の僕に、恐れるものなど何一つなかった。
手術前に看護師に剃毛されて
男性目線
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