その店を選んだのは、本当にただの偶然だった。
日々の忙しさに追われ、身だしなみへの急な思い立ちから、スマートフォンの画面を適当にスクロールして見つけたメンズ専門のワックス脱毛サロン。清潔感の溢れるモノトーンのウェブサイトと、当日の予約が滑り込めたという手軽さだけが動機だった。
雑居ビルの狭いエレベーターを降り、白い扉を開ける。アロマの香りが薄く漂う受付で名前を告げ、個室へと案内された。
「こちらでお着替えをして、ベッドでお待ちください」
手渡された使い捨ての紙パンツに着替え、施術台の硬いマットレスに仰向けになる。天井のダウンライトをじっと見つめながら、これから訪れるであろう肉体的な痛みに、少しだけ身構えていた。衣服を剥ぎ取られた心細さと、他人にプライベートな領域を晒すという気恥ずかしさが、部屋の静寂のなかでじわじわと膨らんでいく。
やがて、控えめなノックの音がして、施術者が入ってきた。
「失礼いたします。本日担当させていただきます――」
その声が耳に届いた瞬間、背筋に冷たい電流が走った。
記憶の底に沈んでいたはずの、しかし決して忘れることのできない、あの独特の鈴を転がすような響き。慌てて首を持ち上げ、入ってきた女性の顔を見つめた。
言葉を失った。
そこに立っていたのは、高校時代、手の届かない存在としてただ遠くから見つめることしかできなかった、あの憧れの女性だった。
髪はすっきりとまとめられ、機能的な施術着に身を包んでいる。しかし、整った目鼻立ち、気品のある口元、そして何より、周囲の空気をふんわりと変えてしまう独特のオーラは、十数年の歳月を経てもなお、あの頃のままであった。
彼女は手元のカルテに目を落としており、まだこちらを凝視してはいない。
心臓が、破裂しそうなほどの勢いで鐘を打ち鳴らし始めた。
(どうして、彼女がここにいる? なんでこんな場所で――)
高校の教室で、窓際の席から彼女の後ろ姿を盗み見ていた日々の記憶が、濁流のように脳内に押し寄せる。学年で一番の美貌を誇り、誰もが密かに恋焦がれていた高嶺の花。話しかけるチャンスなど一度もなく、ただすれ違うだけで一日中幸福になれた、あの神聖な存在。
その彼女が今、僕の、それも極めてプライベートな部位を施術するために、すぐ目の前に立っている。
「では、始めていきますね。お痛みなどありましたら、遠慮なくおっしゃってください」
彼女はプロフェッショナルな微笑みを浮かべ、ベッドの脇に腰掛けた。その目には、目の前の客がかつて同じ学び舎で自分に熱い視線を送っていた冴えない同級生だという自覚は、微塵もなさそうだった。ただの「本日の顧客」として、彼女は僕を見ている。
そのことが、僕のなかの自意識を狂おしいほどにかき乱した。
「まずは状態を確認しますね。少し触れます」
彼女の、手袋越しではない、清潔に消毒された手のひらが、僕の太ももの内側に触れた。
その瞬間、頭のなかの回路がショートした。
かつて妄想のなかでさえ恐れ多くて触れられなかった彼女の指先が、今、現実の感触として僕の肌を捉えている。温かく、そして驚くほど滑らかな感触。
施術の緊張をほぐすための、ごく事務的なタッチであることは痛いほど分かっていた。しかし、僕の肉体はその理性を完全に裏切った。
下半身の奥深く、本能のスイッチが強烈に押し込まれる。
ドクンドクンと、血液が一箇所に集中していくのを感じ、僕は絶望的な恐怖に襲われた。
(ダメだ、鎮まれ、落ち着け。相手はあの彼女なんだぞ。こんなところで、こんな姿を見せるわけにはいけない――)
必死で素数を数え、明日の仕事のスケジュールを思い浮かべ、冷酷な現実を頭に叩き込もうとした。しかし、必死になればなるほど、意識は「いま、彼女の手がここにある」という一点に集中してしまう。
衣服を隔てない、紙パンツ一枚という無防備な状態。そして、彼女の規則正しい呼吸がすぐ近くで聞こえるという事実。
肉体は僕の懇願をあざ笑うかのように、急速に硬度を増していった。
それはもう、生半可な刺激によるものではなかった。高校時代の数年間、純粋に積み上げられてきた「憧れ」という名の燃料が、この一瞬の接触によって爆発的な熱量へと変換され、下半身を鋼のように押し上げていく。
紙パンツの薄い布地が、限界まで強く押し広げられていくのが分かった。隠しようのない、完全な、そして猛烈な勃起だった。
顔が、沸騰したように熱くなる。天井を見つめる僕の視界が、恥ずかしさでチカチカと歪んだ。
(気づかないでくれ。お願いだから、このまま何事もなく進んでくれ――)
だが、そんな祈りは、ワックス脱毛という性質上、最初から無理な話だった。彼女が施術を行うには、その対象となる部位とその周辺を、正確に視認し、触れなければならないのだから。
さらに最悪なことに、僕の肉体の暴走はそれだけにとどまらなかった。
過剰な興奮と、それを抑え込もうとする精神的なパニックが、腺分泌を極限まで活性化させていた。下半身の先端から、熱く、粘度の高い分泌液――カウパー腺液が、文字通り「大量に」溢れ出し始めているのが、自身の感覚ではっきりと自覚できた。
じわり、と布地が湿っていく、あの恐ろしい感触。
それは一滴や二滴というレベルではなかった。とめどなく溢れ出る熱い液体は、使い捨ての頼りない紙パンツの繊維を瞬く間に透過し、じわじわと外側へと染み出していく。
彼女が、施術のために紙パンツを少しずらし、肌を固定しようとした。
その指先が、湿った布地に触れた瞬間。
彼女の動きが、ぴたりと止まった。
部屋のなかの空気が、一瞬で凍りついたのが分かった。
ダウンライトの明かりの下、僕の硬直したペニスと、その先端から溢れ、紙パンツの表面に大きな、悍ましいほどのシミを作っている大量の液体の存在が、完全に白日の下に晒されたのだ。
僕は、きつく目を閉じた。
心臓が、これまでにないほど激しく脈打つ。耳の奥で、ドクドクと血流の音がうるさいほどに響いている。
死んでしまいたかった。いっそこのまま、ベッドごと床の底へ沈んで消えてしまいたかった。
高校時代、僕にとって彼女は聖母であり、女神だった。その女神の前に、僕は今、ただの「興奮を抑えきれずに体液を垂れ流す、醜悪な雄の塊」として転がされている。これ以上の屈辱が、これ以上の恥辱が、人生のなかであるだろうか。
恐る恐る、薄目をあけて彼女の顔を盗み見た。
彼女は、声を上げるわけでもなく、飛び退くわけでもなかった。ただ、そこにいたのは、僕の記憶の中にある「優しく微笑むマドンナ」ではなかった。
彼女の表情には、明確な「あきれ」が浮かんでいた。
眉をほんの少しだけひそめ、口元は完全にフラット。同情も、怒りも、嫌悪すらも超越したような、ただただ「またか」と言いたげな、冷ややかで事務的な視線。
メンズ脱毛という仕事柄、客が興奮してしまうケースには何度か遭遇しているのだろう。彼女にとって、目の前で極限まで硬くなり、大量の液体を漏らしている男は、特別な存在でも何でもなく、ただの「処理の面倒な、理性の緩い客」に過ぎなかったのだ。
その冷徹な現実が、僕のプライドを粉々に打ち砕いた。
彼女のなかで、僕は高校時代の面影を残す男ですらなく、ただの「不適切な反応を示した、マナーの悪い中年の身体」として処理されている。
「……少し、ティッシュで拭きますね」
彼女の声は、極めて淡々としていた。感情の起伏が一切排除された、冷たい氷のような声。
彼女は手際よくワゴンからティッシュを引き抜くと、僕の先端に容赦なく押し当て、溢れた液体を無造作に拭き取った。その動作には、一切の躊躇も、もちろん情緒もなかった。まるで、テーブルの上にこぼれた水を雑巾で拭き取るかのような、極めてドライな作業だった。
「ワックスを塗る際、皮膚が引っ張られますので、できるだけ力を抜いてくださいね」
彼女はそう言いながら、淡々と準備を進める。
その「あきれ気味」の、しかし完全にコントロールされたプロとしての態度が、僕の情けなさをさらに加速させた。僕はただ「すみません……」と、蚊の鳴くような声で呟くことしかできなかった。
その後の施術がどのように進んだのか、僕はほとんど記憶していない。
ワックスが剥がされる瞬間の、皮膚を引き裂かれるような激痛さえも、脳を支配する圧倒的な羞恥心の前には、遠くの出来事のようにしか感じられなかった。
彼女は終始、淡々と、そして確実に仕事をこなした。あきれたような空気は微かに室内に漂い続けていたが、彼女がそれを口にすることは二度となかった。その徹底したビジネスライクな姿勢が、逆に僕と彼女の間の、決して埋まることのない絶対的な距離を証明しているようだった。
「お疲れ様でした。お着替えをどうぞ」
最後にそう言い残して部屋を出ていく彼女の後ろ姿を見つめながら、僕は深い、底のない溜息をついた。
服を着替え、受付で会計を済ませる。受付には別のスタッフが立っており、彼女はもう奥の部屋から出てくることはなかった。店を出て、夕方の街の雑踏に紛れ込んだとき、ようやく僕はまともな呼吸を取り戻した。
惨めだった。情けなかった。
あんな形で、人生で最も憧れた女性と再会し、そしてあんな醜態を晒して終わるなんて。
しかし、駅から自宅へ向かう電車のなかで、吊り革に掴まりながら、僕は奇妙な感覚に囚われ始めていた。
(彼女は、僕にあきれていた。でも、確かに僕の身体に触れていたんだ)
目を閉じると、車内の喧騒が遠のき、あの白い個室の光景がまぶたの裏に蘇る。
彼女の冷ややかな、あきれを含んだ視線。僕の醜態をまっすぐに見つめていた、あの鋭い瞳。
高校時代、彼女の視線が僕に向くことなど、一秒たりともなかった。僕は彼女の世界において、完璧な「透明人間」だったのだ。
それが、どうだろう。
今日、あの部屋で、彼女は確実に僕という存在を、その網膜に、そして記憶に焼き付けたはずだ。たとえそれが「大量にカウパーを漏らした、あきれた客」という、最悪の形であったとしても。
(彼女の記憶の片隅に、僕が刻まれたんだ)
そう思った瞬間、電車の冷房の風が当たっているはずの身体が、内側からカッと熱くなるのを覚えた。
あの冷たいティッシュの感触。彼女のあきれたような、しかし僕のすべてを支配していたあの視線。
あれは、ある意味で、高校時代のどの瞬間よりも濃密な、彼女と僕との「交わり」だったのではないか。
恥ずかしさでのたうち回りたくなるような記憶。
それなのに、下腹部の奥が、再びじわじわと熱を帯びていくのを止められなかった。
大人の男としての理性を、あの冷ややかな視線で徹底的に陵辱されたかのような、倒錯した快感。
彼女に呆れられ、軽蔑されたという事実そのものが、僕のなかで歪んだ艶っぽさを持ち始め、胸の奥を激しく揺さぶり始めていた。
自宅の最寄り駅に降り立ち、夜の帳が下りた道を歩きながら、僕はもう二度とあの店には行けないことを確信していた。
けれど、僕の記憶のなかの彼女は、あの頃の神聖な輝きを失った代わりに、僕の最も恥ずかしい部分を弄ぶ、妖艶で冷徹な支配者として、永遠に生き続けるのだろう。


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