その日、俺の膀胱は限界を迎えていた。
時刻は午後二時過ぎ。真夏の都内、うだるような暑さの中でクライアントとの商談を三件ハシゴし、ようやく駅の改札へと滑り込んだところだった。冷房の効きすぎた電車に揺られている間、静かに、しかし確実に蓄積されていた水分が、駅に降り立った瞬間に大洪水を起こそうと暴れだしていた。
額に汗をにじませながら、俺は構内の隅にある公衆トイレへと早足で向かった。
紺色のフリー素材のような男のマークが目に入る。救いの神に見えた。
「ふぅ……」
滑り込むようにして、ずらりと並んだ白い陶器の朝顔――小便器の一つに陣取る。運良く先客は誰もいない。貸し切り状態だ。ベルトを緩め、ファスナーを下ろし、溜まりに溜まった解放感を一気に解き放つ。
脳に突き抜けるような快感。張り詰めていた全身の筋肉が、じわじわと弛緩していくのが分かった。まさに至福の時間。完全に無防備で、もっともプライベートな、男としての「解放」の瞬間だった。
だが、その平穏は唐突に破られる。
――パタパタパタ。
背後から、小気味よい、しかしこの空間にはおよそ不釣り合いな軽い靴音が近づいてきた。
駅のトイレだ。他の利用者が入ってきたのだろう。最初はそう思った。だから特に気にも留めず、俺はただ目前の白い壁を見つめ、用を足すことに集中していた。
しかし、その足音は俺の真後ろ、わずか数歩の距離でぴたりと止まったのだ。
「あ、失礼しまーす。清掃入りまーす」
――え?
耳を疑った。
突如として背後から響いたのは、低く野太いおじさんの声でも、事務的なアナウンスでもない。鈴の音を転がしたような、場違いなほど若く、瑞々しい女性の声だった。
心臓がドクンと大きく跳ねた。
あまりの衝撃に、出かかっていたものの流れが一瞬、ピタッと止まりそうになる。しかし、人間の生理現象とは恐ろしいもので、一度始まった奔流はそう簡単には止められない。
(嘘だろ……!?)
俺は硬直した。文字通り、指一本動かせない。
背中越しに、気配が伝わってくる。チラリと横目で鏡や周囲の状況を確認したいが、首を動かすことさえ躊躇(ためら)われた。もし動いて、後ろの彼女と目が合ってしまったら? いや、それ以前に、今の俺は完全に「無防備な後ろ姿」を晒しているのだ。
「失礼しますね。足元、ちょっと通ります」
明るい声と共に、俺のすぐ左側の視界に「それ」が入り込んできた。
鮮やかなブルーのポロシャツに、ベージュのチノパン。髪を後ろで一つに結んだ、推定二十代前半の若い女の子だった。少し大きめのマスクをしているが、その隙間から覗く大きな瞳は、驚くほど澄んでいる。
彼女は手に、洗剤のボトルとブラシを持っていた。
そして、俺がまさに用を足している、その二つ隣の便器の前にしゃがみ込み、慣れた手つきで掃除を始めたのだ。
シュッ、シュッ。
洗剤の泡が弾ける音が、静かなトイレ内に響く。
(待て待て待て、おかしいだろ!)
心の中で叫びがこだまする。
通常、男子トイレの清掃に女性が入ることは珍しくない。それは知っている。おばちゃんたちが「ごめんよ~」と言いながらモップをかける光景は、オフィスビルでもよく見かける。だが、それはあくまで「人生の酸いも甘いも噛み分けたベテランのベテラン」だからこそ、こちらも「記号としての清掃員さん」として割り切れるのだ。
しかし、今隣にいるのは、どう見ても自分と年齢の変わらない、あるいはもっと若い「女の子」だった。
しかも、パーテーション(仕切り板)があるとはいえ、距離にしてわずか一メートルちょっと。
彼女が少し首を傾ければ、俺が今どんな状態なのか、文字通り「丸見え」になる位置関係だ。
心臓の鼓動が、耳の奥でドクドクと暴れ始めた。
暑さのせいではない、明らかに冷や汗とは違う、熱い汗がじわじわと背中を伝い落ちる。
(見られているかもしれない)
その妄想が頭をよぎった瞬間、全身の皮膚が粟立つような、奇妙な感覚に襲われた。
彼女はプロだ。仕事に集中している。俺のことなんて、ただの景色の一部、あるいは「動く障害物」程度にしか思っていないはずだ。そう自分に言い聞かせる。
だが、そう思えば思うほど、逆に意識が向かってしまう。
サッサッ、サッサッ。
ブラシで便器をこする規則正しい音が、なぜか妙にエロティックに聴こえてくる。
彼女が動くたびに、ポロシャツの生地が擦れる音、そしてほんのりと、汗の匂いに混じって、シトラス系の爽やかな洗剤の香りがこちらまで漂ってきた。
(ダメだ、早く終わらせてここを出ないと……!)
焦れば焦るほど、身体は言うことを聞かない。皮肉なことに、限界まで溜まっていたせいで、放尿はまだ続いている。長く、あまりにも長い数分間に感じられた。
その時、彼女がふと立ち上がり、こちらに向き直った。
正確には、俺の後ろにある手洗い場に用具を取りに行こうとしただけなのだろう。
だが、俺の視野の端で、彼女の体が確実にこちらを向いた。
(あ――)
ほんの一瞬。本当に、一瞬だった。
彼女の大きな瞳が、俺の背中、そして腰のあたりへと向けられたような気がした。
視線が、衣服越しに肌に触れたような錯覚。
背筋にゾクゾクとした電流が走る。
男としてのプライドというか、羞恥心というか、それらがすべてごちゃ混ぜになった、経験したことのない「熱さ」が下腹部から突き上げてきた。
彼女は悪びれる様子もなく、むしろ慣れた様子で、俺の後ろを通り過ぎていく。
その瞬間、彼女の作業ズボンのポケットが、俺の尻のあたりにカサリと触れた――ような気がした。
「ひっ」と、声にならない悲鳴が喉の奥で鳴る。
心拍数は完全にレッドゾーンを超えていた。バクバクと胸が鳴り、頭がクラクラする。見られている。いや、見られていない。どっちだ? どっちでもいい、とにかくこの状況自体が、とてつもなくヤバい。
ようやく、すべてが終わった。
俺は細心の注意を払いながら、なるべく自然な動作を装ってファスナーを上げ、ベルトを締めた。手元がわずかに震えて、バックルがカチカチと鈍い音を立てる。それさえも彼女に聞かれているのではないかと、気が気ではなかった。
一歩後ろに下がり、振り返る。
彼女はちょうど、洗面台の鏡を熱心に拭き上げているところだった。
背中を向けた彼女の腰のラインが、妙に生々しく目に焼き付く。
俺は足早に洗面台へと向かい、彼女から一番離れた水道の蛇口をひねった。
冷たい水で手を洗いながら、鏡越しに彼女の様子を伺う。
彼女は鏡を拭く手を止め、鏡越しに俺と目が合った。
「……っ」
心臓が跳ねる。
すると、彼女はマスクの奥で、目を細めて小さく微笑んだのだ。
「ありがとうございました。お気をつけて」
その声は、あまりにも爽やかで、そしてどこか妖艶に聴こえた。
まるで、俺が心の中でどれほど動揺し、ドキドキしていたかをすべて見透かしているかのような、大人の余裕すら感じさせる笑み。
「あ、うす……」
蚊の鳴くような声で生返事をし、俺は逃げるようにトイレを飛び出した。
改札を抜け、ホームへと向かう階段を駆け上がる。
夕方の駅のホームに吹き抜ける風は生温かかったが、火照った俺の顔を冷ますには十分だった。
ポケットの中で、まだスマホを握る手がわずかに汗ばんでいる。
ただの駅のトイレ。ただの定期清掃。
日常のなかに潜む、ほんの数分間の出来事。
だが、あの若い清掃員のお姉さんの、鏡越しの笑顔と、背後から迫る気配の生々しさは、今でも目を閉じると鮮明に蘇ってくる。男としての本能を激しく揺さぶられた、あの奇妙で、甘美な緊張感を、俺はきっとしばらく忘れられそうにない。
駅のトイレで清掃のお姉さんに
スリル
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