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ジムのシャワー室に女性トレーナーが

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その日は仕事のキレが最高に悪く、残業を終えた頃には心身ともに泥のように疲弊していた。時計の針は22時を回ろうとしている。僕はいつものように、駅前の24時間営業のスポーツジムへと足を向けた。
平日のこの時間帯は、仕事帰りの会社員が数人パラパラといる程度で、フロアは静まり返っている。いつもなら念入りにするストレッチもそこそこに、トレッドミルで軽く汗を流した。目的は運動そのものというよりも、むしろその後に待っているシャワーだった。一日のすべての垢とストレスを温水で洗い流し、まっさらな状態でベッドに飛び込みたい。それだけが、その夜の僕のささやかな願いだった。
男性用シャワーエリアに入ると、案の定、人影はなかった。
個室が4つ並ぶキャビンの一番手前を選び、衣服を脱いで備え付けのカゴに放り込む。プラスチックの扉を閉め、鍵をカチリと回した。
「ふぅ……」
誰もいない空間に、自分の深い溜息だけが響く。シャワーの栓をひねると、最初は冷たかった水が徐々に心地よい温水へと変わっていった。僕は頭からその熱を浴び、目を閉じた。
シャンプーの泡で頭を包み込み、日中の嫌な出来事をすべて洗い流すように指先を動かす。勢いよく流れる水の音、そして微かに漂うシトラスの香料。完全に自分の世界に入り込んでいた。僕にとってこの空間は、誰にも侵されない絶対的な聖域のはずだった。
あの音が聞こえるまでは。

聖域の崩壊

「……失礼しまーす。定期確認でーす」
シャワーの轟音の隙間を縫って、エリアの入り口から、よく通る若い女性の声が響いた。
心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。
その声の主には、聞き覚えがあった。僕がこのジムに入会した時から親切にマシンの使い方を教えてくれている、専属の女性トレーナーの佐藤さん(仮名)だった。彼女はショートカットがよく似合う、いつもハつらつとした笑顔の、ジムでも人気のスタッフだ。
(待ってくれ。ここは男性用シャワー室だぞ……?)
パニックになりかけた頭で、瞬時に状況を整理しようとする。
22時半。おそらくこの時間は、スタッフのシフト交代に向けた館内チェックのタイミングなのだろう。そして、今日のこの時間帯の男性エリアには誰もチェックインしていないと、彼女はフロントのデータを見て思い込んでいたに違いない。僕はスマホのアプリ会員証の調子が悪く、さっきフロントのスタッフに手動でチェックインを通してもらったのだ。情報が共有されていなかったのだと、すぐに察しがついた。
「あれ、電気ついてる……?」
彼女の足音が、近づいてくる。リノリウムの床を叩く、お馴染みのスポーツシューズの軽い足音。
「誰かいますかー?」
彼女の声はすぐそこまで迫っていた。
僕は頭が泡だらけのまま、完全にフリーズしてしまった。声を大にして「入ってます!」と言えばよかったのだろう。しかし、シャワーの音にかき消されるかもしれないという恐怖と、何より「裸の状態で女性に声をかける」ということへの強烈な羞恥心が、僕の声を喉の奥に圧着させてしまった。
そして、最悪のタイミングが訪れる。
僕が入っている個室の前で足音が止まった。
彼女は、中が空だと思い込んでいる。施錠されているか確認するために、スモークがかったプラスチック製のドアノブに手をかけた。
カチャ、カチャ。
当然、鍵は閉まっている。しかし、彼女は「立て付けが悪いだけ」だと思ったらしく、少し強めにノブを回した。古いタイプのラッチは、経年劣化のせいか、あるいは彼女の想定外の力加減のせいか、信じられないことに「バチン!」と鈍い音を立てて、簡単に外れてしまったのだ。

0.5秒の永遠

「あ――」
勢いよく開いたドアの向こうに、彼女の姿があった。
いつものジムのポロシャツに、黒いハーフパンツ。手にはチェック用のバインダーを持っている。
そしてドアのこちら側には、頭から白いシャンプーの泡をかぶり、お湯に濡れて立ち尽くす僕。遮るものは、何もない。
時間という概念が、完全に消失した。
彼女の大きな瞳が、これ以上ないほど見開かれる。
僕の目線は、彼女の驚愕に染まった表情から動かせない。
彼女の視線が、僕の顔から、濡れた胸元、そして……その下にまで一瞬で落ち、そして跳ね上がるように僕の目へと戻ってきたのが分かった。距離にして、わずか1メートル足らず。湯気の中に、彼女の微かなシャンプーの香りと、僕の使っているシトラスの香りが混ざり合う。
静寂。シャワーの音だけが、まるでスローモーションのBGMのように背景で鳴り響いていた。
時間にして、おそらく0.5秒にも満たない刹那。だが僕にとっては、永遠のようにも感じられる濃厚な時間だった。全身の血流が逆流し、顔面から火が出るほど熱くなるのが自分でも分かった。心臓の鼓動が、耳の奥で爆音を立てていた。
「――っっっあ!! す、すみません!!」
我に返った彼女の顔が、一瞬で真っ赤に染まった。トマトのように赤くなるとは、まさにこのことだ。
彼女は飛び上がるようにして後ろに下がり、ものすごい勢いでドアをバタンと閉めた。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 誰もいないと思って……っ!」
ドアの向こうから、今にも泣き出しそうな、それでいてパニックに陥った彼女の声が聞こえる。猛スピードで遠ざかっていく足音。彼女は文字通り、脱兎のごとく男性シャワー室から逃げ出していった。
一人残されたシャワー室で、僕はしばらく動くことができなかった。
頭の泡が、お湯に流されて目に入り、ツンとした痛みが走る。それでようやく、自分がまだシャワーの下にいることに気づいた。
「……まじか」
ぽつりと呟いた声は、震えていた。
恥ずかしさ。情けなさ。申し訳なさ。
それらの感情の底から、遅れてやってきたのは、全身を駆け巡る猛烈な「ドキドキ」だった。
見られた。あの佐藤さんに、完全に無防備な姿を。
脳裏に焼き付いて離れないのは、彼女の驚いた顔と、一瞬だけ僕の全身を這ったあの視線だ。いけないものを見てしまったという背徳感と、男女の境界線が事故によって強引に突破されてしまったスリル。お湯の熱さとは明らかに違う熱が、僕の身体の芯に居座り、心臓のバクバクがいつまでも収まらなかった。
結局、その夜どうやってシャワーを終えて服を着たのか、記憶が曖昧だ。
這う失意のままロビーに出ると、受付には別の男性スタッフが立っていた。彼女の姿はどこにもなかった。きっと、恥ずかしさのあまり奥の休憩室にでも隠れてしまったのだろう。
帰り道、夜風が火照った顔に心地よかった。しかし、胸の鼓動はまだ通常運転に戻ってくれない。
(明日から、どんな顔をしてジムに行けばいいんだ……?)
頭を抱えながらも、僕の心は、どこか奇妙な高揚感に包まれていた。最悪のハプニング。だけど、思い出すだけで息が苦しくなるような、あの密室の0.5秒間は、僕の退屈な日常に、あまりにも刺激的な爪痕を残していったのだった。

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