オフィスでの長いデスクワークを終え、最寄り駅から自宅へと続く見慣れた夜道を歩いていたときのことだ。ふと、住宅街の片隅にある小さな児童公園の脇を通りかかった。
街灯の薄暗い光に照らされた公園には、人っ子一人いない。色褪せたプラスチック製の滑り台と、チェーンがかすかに風で揺れるブランコ。そして、その奥に佇む、コンクリート製の古ぼけた公衆トイレ。
それを見た瞬間、私の足がぴたりと止まった。
胸の奥の、普段は厳重に鍵をかけて封印している引き出しが、音を立てて開いたような感覚だった。じわじわと顔が熱くなり、背筋に奇妙な冷や汗が伝う。
あれは、私がまだ十六歳そこそこの、高校生だった頃の夏の日の記憶だ。
今思い出しても、穴があったら入りたいどころか、地球の裏側まで逃げ出したいほどの羞恥に震える。けれど同時に、あの夕暮れの気まずい空気、世界のすべてが停止したかのような数秒間の静寂は、私の青春の最も「無防備で、歪な一コマ」として、今も鮮明に焼き付いている。
あの日、私はあの場所で、一人の見知らぬ主婦と、その小さな子供の前に、文字通りすべてを晒してしまったのだ。
高校二年の夏休み、私は特にやることもなく、夕方になると愛用のクロスバイクに乗って街をあてどなく彷彿するのが日課だった。
その日も、夕暮れの心地よい風を浴びながら、自宅から少し離れた見知らぬ住宅街を走っていた。ペダルを漕ぎながら、お気に入りの音楽をイヤホンで聴き、世界の中心に自分がいるような、高校生特有の根拠のない万能感に浸っていた。
しかし、その平穏は突如として破られた。
下腹部を襲った、文字通り「落雷」のような猛烈な尿意。
直前まで何の予兆もなかったというのに、水分を摂りすぎたせいか、あるいは夕方の急な冷え込みのせいか、一刻の猶予も許されないほどの限界が、突如として私を襲ったのだ。
「ヤバい、これは本当にヤバい……」
自転車を漕ぐ足が震える。コンビニを探そうにも、そこは古くからの住宅街で、あるのは民家ばかり。視界が焦りでチカチカとする中、目の前に現れたのが、例の小さな公園だった。
救いの神に見えた。私は自転車を放り出すようにして止め、公園の奥にあるトイレへと文字通り脱兎のごとく駆け込んだ。
そのトイレは、昭和の時代から取り残されたような、古びたコンクリート製の建物だった。入り口には「男女共用」と書かれた古ぼけたプレートが掲げられている。中に入ると、手前に手洗器があり、その奥に個室が二つあるだけの、狭くて薄暗い空間だった。
誰もいない。私は心の中で神に感謝しながら、奥の個室へと滑り込み、勢いよくドアを閉めた。
早く解放されたいという一心と、極限の焦りのせいで、私の注意能力は完全に散漫になっていた。
――ガチャン。
ドアのノブを回し、鍵をかけた「つもり」になっていた。プラスチック製の古いスライド式の鍵は、経年劣化のせいで引っかかりが悪く、実際には最後まで噛み合っていなかったのだ。しかし、当時の私はそんなことに気づく余裕すらなく、ただ目の前の危機を脱することだけに全神経を注いでいた。
ズボンと下着を下ろし、便器に向き合う。
次の瞬間、身体を支配していた凄まじい緊張が、一気に解き放たれた。
「……あふぅ」
思わず口から情けない吐息が漏れる。体内の圧迫感が消え去り、脳内に幸福物質が染み渡っていくような、究極の安堵感。私は目を閉じ、ただその解放の瞬間に身を委ねていた。ジャアジャアと、静かな個室に響く排尿の音だけが、世界のすべてだった。
その時だった。
――ガラガラガラッ。
無防備極まりない静寂を切り裂いて、個室の引き戸が、何の躊躇もなく真横へとスライドした。
「え?」
私の脳が、その事象を理解するまでに明確なタイムラグがあった。鍵をかけていたはずのドアが、なぜ開くのか。なぜ、目の前に「外の景色」が広がっているのか。
夕暮れのオレンジ色の光が、開け放たれたドアの向こうから容赦なく差し込んでくる。
そして、その光の中に、二つの影が立っていた。
一人は、買い物袋を腕に下げた、いかにも近所に住んでいる風の、二十代後半から三十代前半とおぼしき主婦。
そしてもう一人は、その足元で彼女の手を握っている、幼稚園児くらいの見知らぬ男の子。
「あ、ごめんなさ……」
主婦の口から出かけた言葉が、途中でぴたりと止まった。
そこからの数秒間は、文字通り時間が「凍結」していた。アインシュタインの相対性理論を引き合いに出すまでもなく、あの瞬間の1秒は、永遠に匹敵する長さだった。
私は、用を足している最中だった。
当然、隠すべきものは何一つ隠されておらず、剥き出しのまま、前方の主婦と子供に向けて突き出されている状態だ。しかも、途中で止めることなど不可能なタイミングである。
私は、首だけをドアの方へ向けた姿勢のまま、完全にフリーズした。
主婦もまた、ドアを開けた姿勢のまま、目を見開いて固まっていた。
視線が、交錯する。
彼女の瞳の中に、明確な「驚愕」と、それに続く「戸惑い」、そして「見てはいけないものを見てしまった」という強烈な気まずさが浮かぶのが見えた。彼女の視線は、一瞬だけ私の顔に向かい、次の瞬間、重力に逆らえないようにして、私の腰元へと吸い寄せられた。
そして、その下で繰り広げられている「生命の営み」を、彼女は確かに目撃してしまったのだ。
さらに最悪だったのは、足元にいた男の子の存在だった。
子供というのは、大人のように空気を読むということを知らない。
男の子は、開いたドアの向こうにいる私の姿と、そこから放たれている放水現象を、キラキラとした純粋無垢な瞳で見つめていた。そして、静寂を破るように、無邪気な声をあげたのだ。
「あ、ママ! お兄ちゃん、じょーじょーしてる!」
その一言が、静まり返った空間に、あまりにも残酷に響き渡った。
「っ……!」
主婦の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのが分かった。それは恥ずかしさなのか、それとも私に対する怒りなのか。彼女は弾かれたように子供の肩を掴み、自分の背後に隠すと、狂ったようなスピードでドアの取っ手を掴んだ。
「失礼しましたッ!」
――バタン!!!
もの凄い勢いでドアが閉まり、再び個室は薄暗い静寂に包まれた。
ガタガタと、建付けの悪いドアがしばらく震えていた。
後に残されたのは、滝のような冷や汗を流し、便器の前で立ち尽くす私だけだった。
「……終わった」
何が、とは言わないが、私の人生の大切な何かが、確実に終わった気がした。
身体はまだ解放の余韻で震えているというのに、精神は極寒の氷河期に叩き落されたかのように冷え切っていた。
心臓が、耳の奥でありえないほどの爆音を立てて脈打っている。
ドクンドクンと響く鼓動の中で、私は自分がまだズボンを下ろしたままであることに気づき、慌てて衣服を整えた。指先がガタガタと震えて、ズボンのボタンがなかなか嵌まらない。
今思えば、あの主婦だって、男女共用のトイレにまさか鍵もかけずに(かかっていない状態で)若い男が入っているとは夢にも思わなかったのだろう。小さな息子が「おしっこ!」と急に言い出し、慌てて飛び込んできたら、ドアが開いた。だから、そのままの勢いで個室を開けてしまった――そんなところだろう。彼女に悪気は一切ない。100%、鍵の確認を怠った私が悪いのだ。
しかし、悪いのは自分だと分かっていても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
私は個室の中で、じっと息を潜めた。
外から、主婦が子供を促して、早足で公園から立ち去っていく足音が聞こえた。
「ほら、あっちのトイレに行こうね」という、どこか動揺した彼女の声が、遠ざかっていく。
足音が完全に聞こえなくなるまで、私は個室の中で3分ほどじっとしていた。その3分間、私は自分の自意識と、今起きた大惨事を脳内で何度もリプレイし、そのたびに発狂しそうになっていた。
ようやく外に出たとき、夕方の公園は、先ほどよりも少しだけ暗くなっていた。
私は周囲を何度も見回し、あの親子が本当にいないことを確認すると、倒れていたクロスバイクに飛び乗り、ペダルを狂ったように漕ぎ出した。
後ろを振り返ることはできなかった。ただ、夕焼けの赤い光が、私の背中をチクチクと刺すように照らしていたことだけを覚えている。
あれから10年以上の歳月が流れた。
あの時、私を純粋な目で見つめていた男の子は、もう立派な中学生か高校生になっているはずだ。あの主婦だって、日々の忙しい生活の中で、昔近所の公園で遭遇した「マヌケな鍵かけ忘れ男」のことなんて、とっくに忘れているに違いない。
いや、願わくば忘れていてほしい。
今の私は、あの頃のような万能感に浸ることもなければ、トイレの鍵を閉め忘れるような大失態を犯すこともない。社会のルールに適合し、スマートに生きる大人になった。
けれど、スマートに生きれば生きるほど、あの日の「無防備で、世界のすべてが味方だと思っていた瞬間に、文字通りすべてを剥ぎ取られた」ような感覚が、妙に愛おしく思えることがある。
人間、どんなに気取って生きていても、一皮剥けばただの不完全な生き物なのだ。
あの夕暮れの公衆トイレは、私にそんな「人間の滑稽さと生々しさ」を、身をもって教えてくれた場所なのかもしれない。
公園の脇を通り過ぎ、再び自宅への歩みを進める。
夜風が、火照った私の頬を優しく撫でて通り過ぎていった。あの日の夕焼けの匂いが、一瞬だけ、鼻腔をくすぐったような気がした。

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