先週末、実家の自室を片付けていたときのことだ。天袋の奥に押し込まれていた段ボール箱から、薄汚れた青い冊子が顔を出した。表紙には、お世辞にも上手とは言えない手書きのカットと、「信州・林間学校のしおり」という文字。
あれから、もう二十年以上の月日が流れたことになる。
ページをめくると、懐かしい名前が並んでいた。当時の私は中学二年生。スマホなんて影も形もなく、クラスの数人がこっそり持ってきていた折りたたみ式のガラケーが、最先端のガジェットだった時代だ。
あの三泊四日の林間学校は、お世辞にも洗練されたイベントとは言えなかった。宿泊先は、築何年かも分からない木造の古い宿舎。夜になると廊下の電球が寂しげに揺れ、山の冷気と、どこか湿った木と畳の匂いが混じり合って漂っていた。
スケジュールは分刻みで、ハイキングに飯盒炊爨、夜のキャンプファイヤーと、慣れない集団行動に誰もが疲弊していた。そんな泥臭い思い出の中で、今でも鮮明に、それも驚くほど生々しい熱量を持って思い出す記憶がある。
それは、女子五人と男子一人という、少し歪な構成だった「清掃係」の仲間たちと、あの夜に目撃した、小さくて、あまりにも刺激的だった一コマだ。
なぜそうなったのかは覚えていないが、私たちの班の清掃係は、私を含めた女子五人と、男子が一人だけという妙な比率になっていた。その唯一の男子が、「ハジメくん」だった。
ハジメくんは、クラスでも目立つタイプではなかった。背が低く、いつも少し猫背で、話しかけるとはにはにかんだような笑顔を見せる。要領が良い方ではなく、むしろ不器用。けれど、頼まれたことは絶対に嫌と言えない、そんな損な役回りを引き受けがちな男の子だった。
あろうことか、彼はその優しさが災いして、人手不足だった「食事係」と「レクリエーション係」のサポートまで兼任させられていた。
初日から、ハジメくんは常に走っていた。夕方、私たちがほうきと雑巾を持って廊下に集まる頃、彼は額に大粒の汗を浮かべ、お盆や巨大な鍋を抱えて厨房と食堂を往復していた。
女子五人はといえば、お調子者のサキ、しっかり者の委員長タイプのチエ、いつもマイペースなマイとユカ、私。最初は「男子一人だけだし、戦力外かな」なんて勝手なことを言っていた。けれど、ハジメくんがどんなに遅くなっても、必ず「遅れてごめん!」と息を荒げてやってくる姿を見ているうちに、私たちの中に、なんとなく彼を「可愛い弟」か「逆らえないペット」のように可愛がる、姉御肌のような空気が芽生え始めていた。
当時の私たちは、ハジメくんを「一人の男」としては全く意識していなかった。だからこそ、あんな無防備な距離感でいられたのだと思う。
あの夜が来るまでは。
事件が起きたのは、林間学校の二日目の夜だった。
その日は午後からのハイキングが雨で大幅に遅れ、全体のスケジュールが完全に崩壊していた。夕食の時間は後ろ倒しになり、夜のプログラムが終わる頃には、全員が泥のように疲れていた。
宿舎の入浴時間は、男子と女子で厳格に時間が区切られていた。その夜は女子の入浴が先で、その後に男子が入る手はずになっていたのだが、スケジュールが押したせいで、男子の入浴時間は極端に短くなってしまったようだった。
さらに運の悪いことに、ハジメくんはその間も、レクリエーションの片付けに引っ張りだこになっていた。
夜の十時前。消灯時間が近づく中、私たち清掃係の女子五人は、最後の仕事として「大浴場の脱衣所と前廊下の清掃」に向かった。みんな自分の入浴は済ませ、髪を乾かし、お揃いのジャージ姿だった。
宿舎の奥にある大浴場へ続く廊下は、驚くほど静かだった。他の生徒たちはすでに部屋に戻り、布団の中でヒソヒソと話し始めている時間帯だ。
「早く終わらせて、私たちも部屋でお菓子食べよう」
サキが小さな声で言った。
「そうだね。ハジメくん、今日はさすがにもう来られないだろうね」
チエがそう応じながら、大浴場の引き戸に手をかけた。
誰もいないはずだった。男子の入浴時間はとっくに終了していると、先生からも聞いていたからだ。
チエがガラガラと音を立てて引き戸を開け、私たちはその後に続いて、薄暗い脱衣所へと足を踏み入れた。
脱衣所に入った瞬間、まだ新しく、濃密な湯気の匂いが鼻をくすぐった。
「あれ? 誰かいる?」
ユカが小さく呟いた。
浴室へと続く曇りガラスの向こう、白い湯気が立ち込める中に、確かな人影が見えたのだ。
ジャアジャアと、激しいシャワーの水音が静かな空間に響いている。
私たちは一瞬、凍りついた。恐る恐るガラス扉に近づき、隙間から向こうを覗き込んだ私たちは、そこにいる人物の正体に気づき、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、ハジメくんだった。
彼は、誰もいない大浴場の片隅で、一人でシャワーを浴びていた。どうやら、あらゆる係の仕事をすべて終えた後、先生の特別な計らいで、消灯間際のこの時間に一人だけ入浴を許されたようだった。
問題は、私たちが立てた引き戸の音で、彼が完全にこちらの存在に気づいてしまったことだ。
彼がこちらを振り返り、ガラス越しに私たちの姿を認めた瞬間、ハジメくんの動きが完全に止まった。
普通のシチュエーションなら、男子は大慌てで隠れるか、女子が悲鳴を上げて逃げ出す場面かもしれない。思春期の真ん中にいた私たちにとって、男子の全裸(と言っても、湯気に煙るシルエットだったけれど)を目撃するなんて、本来なら大事件だ。
けれど、私たちはその場から一歩も動けなくなってしまった。ガラスの向こうのハジメくんから放たれる「空気」が、あまりにも異様だったからだ。
ハジメくんは、慌てて手元にあった小さな白いタオルで前を隠そうとした。けれど、その手は小刻みに激しく震えていた。
何より、彼の目がいつもと全く違っていた。
いつもなら、困ったようにへらへらと笑うはずの彼が、その時は一言も発さず、潤んだ、けれど妙に鋭い視線で、ガラス越しの私たちをじっと見つめ返してきたのだ。その視線は、恥ずかしさでパニックになっているというより、私たち女子五人のジャージ姿を、足元から順になぞるように見つめているようだった。
湯気の中に浮かぶ彼の胸元が、激しく上下しているのが分かった。走ってきたわけでもないのに、彼は肩で、荒い息を繰り返している。
そして、お湯の熱さのせいだけではない、どす黒いほどの赤みが、彼の顔から耳の裏、首筋、そして剥き出しの胸元へと、ドクドクと広がっていくのが見えた。
中学生の私たちは、その光景が意味するものを、直感的に悟ってしまった。
ハジメくんは、恐怖や困惑で固まっているのではない。
「夜の大浴場で、女子五人に裸を見られている」というこの異常なシチュエーションに、男の子として、身体ごと猛烈に昂ぶり、興奮しているのだ。
彼が必死に太ももの間で押さえている小さなタオルの下。そこが、どうしようもなく「男の子」としての明確な反応を示してしまっていることが、湯気とガラスの境界線を越えて、私たちにダイレクトに伝わってきた。
誰も叫ばなかった。叫ぶことすら忘れるほど、その場に満ちた「雄」としての生々しい気配と熱量に、私たちは完全に圧倒されていた。いつも「可愛い」と舐めていたハジメくんが、今、私たちの視線を浴びて、壊れそうなほど興奮している。その事実に、私たちの頭もどうにかなりそうだった。
「……っ」
誰かの短い息の音が聞こえた瞬間、委員長のチエが、引き攣った声で「……出よう」と言った。
私たちは弾かれたように、バタバタと脱衣所の外へ飛び出した。
廊下の冷たい空気が、火照った私たちの頬を容赦なく冷やしていく。
誰も何も言わなかった。けれど、全員の呼吸が浅く、速くなっているのは一目瞭然だった。サキは自分の唇を噛み締め、マイとユカは顔を見合わせることすらできずに俯いていた。
いつもの「お姉さんぶった」余裕なんて、木っ端微塵に吹き飛んでいた。私たちは、ハジメくんの中に眠っていた、そして今まさに目の前で爆発した「男の性」に、ただただ気圧されていた。
五分ほどして、大浴場の引き戸がゆっくりと開いた。
髪を濡らしたハジメくんが、体に張り付いたジャージ姿で出てきた。彼は廊下に佇む私たちを見て、小さく肩を震わせた。
いつもの彼なら、「ごめん!」と涙目で謝ってきただろう。けれど、その夜の彼は違った。
彼は私たちと目が合った瞬間、小さく、でも深く熱い息を吐き、じっと私たちを見つめた。その瞳には、まだ大浴場での興奮の名残のような、妖しい熱が宿っていた。
謝るわけでもなく、ただ「見られてしまった」こと、そして「それによって自分がどうなってしまったか」を、無言で私たちに突きつけているような、そんな強い目だった。
「……掃除、もう終わるから」
チエが、震える声をどうにか絞り出して言った。ハジメくんは、ただ一度だけ深く頷き、私たちの横をすり抜けて、足早に自分の部屋へと去っていった。すれ違いざま、彼の身体から、熱い石鹸の匂いと、嗅いだことのないような濃い体温の匂いが漂ったのを、私は今でも覚えている。
翌日からの林間学校で、私たちの班の「清掃係」の空気は、一変した。
もう、誰もハジメくんをパシリのようには扱わなかった。それどころか、掃除の時間に彼がやってくると、女子たちの間にピリッとした、どこか艶っぽい緊張感が走るようになった。
狭い用具入れの物置で、ハジメくんと二人きりでほうきを取り出す瞬間。彼の視線が私の手元や首筋に注がれるたび、私はあの夜の、激しく上下していた彼の胸元や、震える手元を思い出して、心臓が爆発しそうになるのを感じていた。
ハジメくん自身も、どこか吹っ切れたような、男らしい目つきをするようになっていた。私たちは言葉には出さないけれど、全員があの夜の「ハジメくんの興奮」を共有し、それに引きずられていたのだ。
実家の押し入れで見つけたしおりを閉じながら、私は小さく息を吐いた。今になって頬が熱くなるのを感じる。
大人になった今なら、よく分かる。あの日、誰もいない大浴場で女子たちに囲まれたハジメくんが、どれほどの衝撃と、理性を狂わせるほどの昂ぶりを感じていたのかが。そして中学生だった私たちは、男の子のその生々しい変化に、言葉にできない官能とスリルを感じていたのだということが。
あの時、湯気の中で猛烈に興奮していたハジメくんは、今どこで、どんな大人になっているだろう。
山あいの宿舎、塩素と石鹸の混じった濃密な湯気、そして私たちの視線を浴びて、真っ赤に昂ぶっていた身体。
それは、私の青春の、一番最初のページに刻まれた、あまりにも刺激的で、今も消えない大切な熱の記憶だ。

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