あの夜のことは、今でもキッチンで一人、グラスに水を注ぐたびに思い出す。
私は都内のIT企業で働く26歳。家賃を抑えるのと、単純に寂しさを紛らわせるために、男女6人が暮らす一軒家タイプのシェアハウスに入居して2年が経つ。住人同士の距離感は適度で、リビングでたまに飲むことはあっても、基本的にはお互いのプライベートに干渉しない。それが心地よかった。
あの事件が起きたのは、去年のうだるように暑い、7月の木曜日の深夜だった。
時計の針は午前3時を回っていた。翌日も仕事だったけれど、エアコンの効きが悪い自室の寝苦しさと、急な喉の渇きで目が覚めてしまった。パジャマのTシャツの襟元をパタパタと仰ぎながら、私はベッドから抜け出した。
私の部屋は2階で、共有のキッチンとリビングは1階にある。深夜だし、住人はみんな寝静まっているはずだった。私はすっぴんに、よれよれのショートパンツという気の抜けた格好で、トントンと静かに階段を降りた。
廊下は真っ暗だったけれど、キッチンの入り口まで来ると、薄暗いオレンジ色の常夜灯がぼんやりと空間を照らしていた。
「……あれ?」
誰かいる。
人の気配と、低いうめき声のような、ごくりと喉が鳴る音が聞こえた。
最初は泥棒かと思って心臓が跳ね上がった。でも、常夜灯の光の中に浮かび上がったその背中を見て、すぐに同じシェアハウスの住人だと気づいた。
健太くん。私より二つ年下で、確かデザイン関係の会社に勤めている、普段は大人しくて物静かな男の子だ。挨拶をすれば愛想よく返してくれるけれど、自分から積極的に輪に入ってくるタイプではない。細身で、いつも少しオーバーサイズの服を着ているイメージがあった。
「なんだ、健太くんか……」
と声をかけようとして、私の言葉は喉の奥で完全に凍りついた。
違和感の正体に、脳が追いついた。
彼は、何も着ていなかった。
本当に、文字通り「一物も」身につけていなかった。
彼は冷蔵庫を開け、そこから取り出したガラスのピッチャーから直接、冷水を喉に流し込んでいた。上を向いた喉仏が激しく上下している。
冷蔵庫の中から漏れる白い光が、彼の完全に露出した肉体を冷酷なまでに鮮明に照らし出していた。
普段のダボっとした服からは想像もつかないほど、彼の身体は白く、そして引き締まっていた。浮き出た肩甲骨、背骨のライン、そしてキュッと引き締まったお尻。
私はあまりの衝撃に、声を出すことも、その場から逃げ出すこともできず、ただキッチンの入り口の影で立ち尽くしていた。見てはいけない。絶対に見てはいけない。そう思うのに、人間の防衛本能なのか、それとも非日常すぎる光景への好奇心なのか、視線がどうしても彼に釘付けになってしまう。
水を飲み干した健太くんは、ふぅ、と深い息を吐き、ピッチャーを冷蔵庫に戻した。
そして、彼がゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞬間、私たちは完全に正面から目が合った。
「あ――」
彼の口から、声にならない小さな悲鳴が漏れた。
常夜灯のオレンジの光の中でも、彼のアゴのラインから耳の裏、そして首筋にかけて、一瞬で血の気が引いて真っ白になったのが分かった。
そして私の視線は、彼のパニックに連動するように、どうしても彼の下半身へと向いてしまった。
そこには、普段の彼の優しげな雰囲気とは裏腹な、生々しい男性としてのシンボルが、隠されることもなく完全に晒されていた。深夜の静寂の中で、彼のその部分だけが妙に立体的に、現実味を持って存在しているように見えた。
沈黙。
時間にして、おそらく5秒か6秒。でも、私にとっては1時間にも感じられるほど濃密で気まずい時間だった。
普通なら、叫んで顔を覆うとか、すぐに後ろを向くべきだったのかもしれない。でも、あまりのリアリティに私は完全に思考がフリーズしていた。
「あ……ごめ、なさ……」
健太くんの声は震えていた。彼は慌てて両手で前を隠そうとしたけれど、隠しきれるものでもない。彼はその場に凍りついたまま、大きな目をさらに見開いて私を見つめていた。その瞳には、恐怖、絶望、そして……信じられないほどの「羞恥」が混ざり合っていた。
驚いたことに、彼はその場から逃げ出さなかった。というか、腰が抜けたように動けなくなっていた。
よく見ると、彼の胸元が激しく上下している。呼吸が荒くなっているのだ。前を隠す彼の手の隙間から見える肌が、今度は一転して、じわじわと真っ赤に染まっていくのが分かった。
恥ずかしさの極致に達しているはずなのに、彼の身体は、どこか奇妙な緊張感を孕んでいた。ただ怯えているだけではない、もっと別の、ドロっとした熱のようなものが、彼の全裸の身体から立ち上っているような気がした。見られていることそのものに、彼の防衛本能と別の何かが刺激されているのではないか――そんな不躾な予感が、私の脳裏をよぎった。
私はハッと我に返った。これ以上ここにいてはいけない。
「あ、ごめん! 私、何も見てないから!」
私は精一杯の早口でそう言うと、水も飲まずに、逃げるように階段を駆け上がった。
自分の部屋に飛び込み、ドアを閉めて鍵をかける。心臓がバクバクと太鼓のように鳴り響いていた。ベッドに倒れ込み、毛布を頭から被っても、さっき見た健太くんの全裸のシルエットが、網膜に焼き付いて離れなかった。
あの細い腰、白い肌、そして、私と目が合った瞬間の、彼のあの絶望と興奮が入り混じったような、潤んだ瞳。
「どうしよう……明日から、どんな顔して会えばいいの?」
結局、その夜は一睡もできなかった。
翌朝、私は恐る恐るリビングへ降りた。
金曜日の朝のキッチンには、いつも通り他の住人が何人かいて、トーストを焼いたりコーヒーを淹れたりしていた。その中に、健太くんの姿もあった。
彼はいつも通り、首元の詰まった長袖のシャツを着て、俯きがちにスマホを眺めていた。
私が「おはよう」とリビングに入っていくと、彼はビクッと肩を跳ね上がらせた。そして、チラッと私を見た。
その目は、昨夜のあの瞬間と同じ、怯えと、どこか縋るような色を帯びていた。彼の耳の後ろが、みるみるうちに赤くなっていく。
「おはよう、麻衣さん……」
蚊の鳴くような声で、彼は言った。周りの住人は、私たちの間に流れる異常な空気には気づいていない。
「健太くん、夕べはよく眠れた?」
私が何気なさを装ってそう声をかけると、彼は一瞬、呼吸を止めた。そして、小さくコクンと頷いた。彼の視線は私の顔ではなく、私の手元や、床の方を泳いでいた。その姿を見て、私は確信した。
彼は、自分が私に「完全にすべてを見られた」という事実に、今も激しく支配されている。
それからの数日間、シェアハウス内での私たちの関係性は静かに、でも決定的に変わってしまった。
健太くんは、私と二人きりになるのを避けるようになった。でも、リビングで偶然二人きりになってしまうと、彼は蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
私が「健太くん、ちょっとその調味料取って」と頼むだけで、彼は顔を真っ赤にして、手を震わせながら差し出してくる。
ある日の夜、みんなが出払って、リビングに私と健太くんの二人だけになった時のことだ。
彼は居心地悪そうに立ち上がって部屋に戻ろうとした。その時、私は意地悪な衝動を抑えられなくなって、声をかけた。
「健太くん」
「はいっ」
彼はびくんと身体を震わせて振り返った。
「あのさ……もう夜中に、裸で水飲みに行くの、やめた方がいいよ。風邪ひくから」
私が極めて事務的に、でも少しだけ声のトーンを落としてそう言うと、健太くんは目を見開き、完全にフリーズした。
彼の顔は、耳から首筋、そしてシャツの隙間から見える鎖骨のあたりまで、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。彼はきつく唇を噛み締め、呼吸を荒くしながら、じっと私を見つめた。
その目は、「やめてください」と言っているようでもあり、同時に「もっと言ってください」と懇願しているようでもあった。彼の視線が、私の目から、私の唇、そして私の服装へと、弱々しく彷徨う。
彼は、私に対して完全に服従しているかのような、無防備な弱者の顔をしていた。あの夜、私の前に晒された彼のあの部分と同じように、彼のプライドも、男としての尊厳も、すべて私が握っている。そんな奇妙な万能感が、私の中に湧き上がってきた。
「……はい。すみません」
健太くんは小さな声でそう言うと、深く頭を下げて、足早に自分の部屋へと去っていった。その後ろ姿を見送りながら、私は自分の胸の奥が、妙にドキドキと高鳴っているのを感じていた。
あれ以来、彼は私の前ではいつも小さくなっている。
すっかり立場が逆転してしまったけれど、私はそれを嫌だとは思っていない。むしろ、普段は真面目な彼が、私の視線ひとつでガタガタと震え、顔を赤くする姿を見るのが、少しだけ楽しみになってしまっている。
シェアハウスのルール違反。
それは私にとっても、彼にとっても、もう日常には戻れない、秘密の扉を開ける合図だったのかもしれない。

コメント